Fall

 

fall:秋、という言葉の響きが好きだ。落ちる。緩やかに、冬の奈落に向かって落ちる。そんな意味合いを仄めかすような、この英単語が好きだ。少しずつ枯れていく木々を見つめながら、少しずつ色褪せていく空気に纏われながら、世界が密やかに、されど確実に、死んでいくのを感じるのが好きだ。秋が、やってくる。

廃墟を愛している方々に尋ねて分かったのは、廃墟とは、「生物学的死」と、「忘却されるという意味での死」の狭間に在るものだということだ。建物としての役割を終え、其処を使う人々が去り、死んだ建物。建物の生物学的死と、この世の全ての人々から忘れられる二度目の死、の間に位置するものが廃墟なのだ。廃墟は、私たちがどうやっても見ることのできない、自分が死んだ後の世界を見せてくれる。だからこんなにも、美しく映るみたいだ。

自分が若くして死んだ後の葬式の風景を何度も夢想してきた(die youngー余談だが、私はこの言葉も好きだ)。私が自ら死ぬとき、おそらく最も甘美な風景はまさに自分の葬式の風景、自分が死んだ後の風景なのに、私はそれを見ることができない。これが「自殺すること」のジレンマ。
でも廃墟はその風景を見せてくれる。それでいて人間や動物とは違って無機物なので、客観的に見られる。傍観者でいられる。玻璃の向こう側の景色として、ただ「鑑賞」できる。

これまで、マンションの高層階に住むことがほとんどだったからなのか、「落ちる」想像もよくする。たとえばプール、海、湖。広い水面に脚から落ちる。身体が水の中に落ちたと同時に私の長い髪がゆらりと浮く。流石に地面に落ちる想像は、余程追い詰められているときしかしなかったけれど(生々しいので)。一度、どこまでも落ち続けてみたいな、と思う。落ちるところまで落ちていって、廃墟になれない私たちは、ただただ落ちて、地面に叩きつけられて、さよなら。