伯爵令嬢になりきれない
大学に、親友と呼べるひとはひとりしかいない。
襟足をばっさり切ったショートカットで、美人で、素直なひと。本人に伝えたかどうか忘れたけれど、はじめて大学生としてキャンパスに足を踏み入れたオリエンテーションのとき、通路を挟んで隣に座っていた彼女があまりに綺麗で、顔を向けられなかった。もっとも、次第に仲良くなっていくにつれて、なんだこのうるさくて変な奴、と思うようになっていくのだけれど。
優しくて、声が大きくて、真面目。そんなところが、自分と正反対で、眩しくて、すきだった。
私も彼女もLINEでのやりとりが苦手だった。大学が春夏学期を通してオンライン授業になると決まってからは、それまで毎日顔を合わせていたのが一気に会えなくなったので、ときどき電話をしたり、手紙を送り合ったりするようになった。
元気ですか?私は元気です。
そんな常套句から始まる手紙を書いたのは、中学生以来のことだった。無垢で純真で、私にはもったいない言葉であるように感じて、その後に何を続けたら良いかわからなかった。
何を書いただろう。たしか、最近は読書と刺繍をして過ごしていますとか、君に会えなくて寂しいです、とか。暗い話は明るく書いて、何をしているのか気になった、と添えた。
生真面目な彼女。すぐに返事がきた。
伯爵令嬢へ、と書いてあるのに再読して気がついて、思わず吹いた。でも、読み終えた私の胸の内は重かった。
彼女は、最近何をして過ごしているの、という私の問いに、やっぱり真面目に答えてくれていた。
絵を描いているよ。
あなたには多分一度も言ったことがないけど、絵画じゃなくて、漫画っぽいやつ。下手の横好きってね。
少し不安そうに、遠慮がちに紡がれたその言葉に、自分の体温がざっと下がったのを感じた。どうやら傷ついているらしい自分を、心の底から軽蔑した。理由はわかっていた癖に。わかっていたうえで、自身の「伯爵令嬢」という身分を捨てたくなくて、あえて何も言わなかっただけだ。私は彼女と違って、狡猾で、ずるい。
私は他人に見せる「私」を、限りなくコントロールしている。気取っている。そうやってひとに、自分を「憧れさせている」のだ。
本当に、ずるい。
私のすきなもの。読書。芸術鑑賞。詩を書くこと。ヴァイオリンは弾くのも聴くのもすきだ。刺繍。最近始めたのはカリグラフィー。旅行。
嘘ではない。嘘ではないけれど。
私はあなたみたいに「崇高」な趣味はもっていないから。
そんなことを彼女に言われたことがある。趣味が崇高ってどういうこと、なんて純粋気取りの言葉を吐くことは絶対にしないけれど、最近Twitterで似たような言葉を使っているひとを見かけた。趣味が崇高であるということの本質を明確に言い当てることはたしかにできないかもしれない。けれど、その意味するところはわかる。たとえば漫画より詩集、日本のアニメよりフランス映画、テレビゲームよりチェス。こんな風に、崇高と呼ばれるであろう趣味を、私はいくつか挙げることができる。
そして私に関してさらに性質が悪いのは、何が崇高だと思われるかを知っているうえで、「崇高」な趣味ばかりをかいつまんで「趣味です」と、にっこり笑って言うところだ。まるで、それが全てであるかのように。
上述した「すきなもの」はどれも嘘ではないけれど、「本当」でもない。私は日常生活のなかで息をするように嘘をつく。そうやって自意識を守っている。「私」という張りぼての城をつくりあげて、ひとりで閉じ籠もる。そうやって逃げられなくなって苦しくなって勝手に死にたくなるのだけれど、自業自得すぎてひとかけらの憐憫の情も湧かない。
私はアニメも漫画もすきだし、純喫茶ばかりを訪れているわけではなくて時折マクドナルドにも行くし、テレビ番組も観る。自粛期間中、一日アニメを観て過ごしたりしていた。ただ、そういう自分の一面を言わなかったり、嘘をついたりして誤魔化している。伯爵令嬢を気取って。
美しいものだけを見て生きていきたい。
その言葉も嘘ではない。嘘ではないけれど、どこか取り繕われている。
こんな風に気取って気取って、庶民の癖に「伯爵令嬢」であるかのように振舞ってきたから、親友は自分のすきなものを、私と共有することを躊躇ったのだ。私が彼女に、引け目を感じさせていた。私がすきだと公言しているものが、どれもこれも崇高だから。彼女は、私は漫画なんて読まないと思っている。
嫌になる。自分が。
彼女の使った伯爵令嬢という言葉に他意なんてない。私の歪んだ性格が、こんな結論を出していることはわかっている。素直な彼女とは正反対の、歪んでいて、醜い。私は、私は。
親友からの手紙を何度も読み返して、ひとつひとつ墓標を立てるように、心に刻みつけた。
私はありのままの私でいることが必ずしも正義だとは思っていない。なりたい私を演じているだけだとしても、他者に演技だとバレさえしなければ私はそういう人間に「なる」と信じている。実際、そんな風にしてこれまで生きてきて、今の私は過去の私に比べて、随分となりたい私に近づいたと思う。
なんて、言い訳でしかないけれど。
昔、Twitterのひとに「あなたの気取り方が嫌い」と言われたことがある。よくわかる。いまだに変わらない私はただただ最低で、本当に、価値のない人間。
目を閉じた。見たくないものから一瞬目を背けた。
そして、深く息を吸い込んだ。
親友よ。もう少し待ってほしい。君にまた手紙を書くから。梅雨が終わって夏がきたら、君に返事を出す。
話してくれてありがとう。私も漫画、すきだよ。
私が隠していた所為で、君に気を遣わせてごめん。
君がすきなものを、今まで聞けていなかったのが私はショックだった。自分に対して腹が立って仕方なかった。
だって、君は私に、趣味はないって、言ってた。それが悩みだって。
大学に入ってはや2年半。もう3年生だ。感情が浮かんだり沈んだり面倒な私の隣で、ずっと笑っていてくれる親友。私たちは仲が良いと思っていた。知らないことなんてないと思っていた。馬鹿みたいだ。何を言っているのか。他ならぬ私自身が、つまらない秘密を守っていた癖に。
伯爵令嬢なんて嫌だ。そんな肩書きなんか要らないから、君のすきなものをもっともっと知りたい。
ーーー親友へ。
この間読んだ漫画が、とってもおもしろかったの。
あとね、私も昔はよく、漫画を描いてた。友達と絵を送りあったりしていたの。
今まで変な意地張ってごめん。
君のすきなものを、ぜんぶぜんぶ知りたいよ。
君に隠していたこと、嘘をついていたこと、たくさんあるんだ。
いつか正直に話せるだろうか。親友はきっと笑ってくれるけれど、私は、まだ、この鎧を脱ぐのが少し怖い。
私って、なんだろう。私は、いつになったら、私をすきになれるのかな。