さよならムーン・チャイルド
長い時間をかけて、失恋をしたのだと思う。
梨果のように。でも、そもそも失恋とはそういうものなのだと思う。特に私のように、激しい感情や大きすぎる愛によって動くのではない人間にとっては。冬の陽だまりのような恋に触れて、微睡んだまま無為に午後を過ごすように恋に敗れて、時間とともに静かに失っていくのだ。そうやって、いつの間にか私は、失恋をしていた。
最後に会った日、彼女は盛大に遅刻してきた。
前日の夜中から返信がない。おそらくまだ寝ているんだろうと駅の改札前で考えながら、集まっては散っていく人々を見つめていた。約束の10時を15分ほど過ぎたとき、彼女から電話がかかってきた。
寝起きの声。いつもより低く掠れている。案の定、夜遅くまで飲み会だったらしい。すぐに行く、本当にごめん、と大袈裟すぎるくらいに謝る彼女を宥める。
パフェを食べて待っているから、大丈夫。のんびりおいで。本当にゆっくりで良いから。
10回くらい言い聞かせて電話を切る。しかし彼女のことだから死ぬほど急いで来るんだろうな、と苦笑いして、適当に入ったカフェで時間を潰すことにした。
流石にこのパフェを食べ終わるまでは来ないだろうと踏んでいたけれど、予想より遥かに早く彼女が私の前に現れたのは、パフェを半分食べ進めた頃だった。待ち合わせをしていた駅が彼女の最寄りだったことを除いても、あまりの到着の早さに軽く腰を抜かした。
遅くなってごめん。パフェ奢る。
などと言い出した彼女を本気で止めつつ、その真剣な剣幕に笑ってしまった。
何も食べていないでしょう、何か食べたら、と言ったのだけれど、彼女は、こんなに待ってもらったのだから一刻も早く行こう、と私の腕を引っ張った。私が待っていた時間は、たった35分だったのに。
彼女が約束に遅れたことはない。彼女ほど律儀なひとに出会ったことはない。
初めて二人で遊んだとき(堺にミュシャの展示を観に行こうと誘ってくれた)、黒いワンピースに緩く髪を巻いた彼女が素敵で、私は浮かれて、梅田のスペインバルで赤ワインとパエリアを鱈腹飲み食いした夜も、
秋のある日、彼女が「良い赤ワインを貰ったから一緒に空けよう」と言って持ってきてくれたそれが、彼女の誕生日にアルバイト先から贈られたものだったときも、
昨年のクリスマスイブも。
一度だって彼女は、私との約束に遅れたことはなかった。
忘れもしない、2019年のクリスマスイブ。
家に泊まりにきた彼女に、私はサプライズを計画していた。「私たちはもう大人だからサンタさん来ないね」なんて言って雰囲気を作り、クリスマスの朝、綺麗にラッピングしてもらったÍPSAの化粧水を彼女の枕元に置いておいた。朝が弱い彼女がゆっくりと起きてプレゼントに気が付き、「昨日はサンタさん来ないって言ってたのに」と言いながら嬉しそうにしてくれているのを見て、ようやく埋め合わせができたと安堵した。
というのも、彼女はいつだって「楽しかったから」「もてなしてくれたから」と何かと理由をつけて多く払ってくれることが多かった(もちろん、毎回全力で断るのだけれど彼女に押し負けてしまうのだ)。だから、せめてクリスマスプレゼントくらいは、と密かに用意していたのだった。
ところが。彼女は、「こんなにもてなしてもらってばかりだし、お返しがしたいから欲しいもの教えて」と言って全く引かない。遂に私が折れて、少しでも安いものをと考えて、THREEのネイルポリッシュのMOON CHILDというカラーを指定したのに、「安すぎるから別の色も合わせて二本買った」と言ってプレゼントしてくれた彼女に、もう勝てない、と笑った。
彼女はいつも、言葉と行動を持って気持ちを示してくれるひとだった。だから私も、自分の気持ちは言動とともに示していた。
話を戻す。
この日の目当てはカラヴァッジョの展示だった。
彼女が一つの作品とじっくり向き合いながら、その表現や技術に感嘆したり、軽く冗談を言ったりする横顔が大好きだった。一緒に美術館に行ける友人は少ない。そうでなくても特別な彼女の存在は、恐ろしいほどに貴かった。
真剣にカラヴァッジョの作品を鑑賞していた彼女が不意に私の手を握ったとき、稲妻に貫かれたような衝撃が走った。心臓の音が彼女に伝わってしまったら、何もかもおしまいになってしまうと思った。私は限りなく平静を装って、彼女の手を握り返した。
互いに何も言わず、そのまま淡々と作品を見ていった。立ち止まって感想を小さな声で言い合って、肩が触れて、その度に彼女の細い指の感触が心臓にまで達しそうだった。《ホロフェルネスの首を斬るユディト》へ向かって彼女に手を引かれて歩く。いつもは緩く巻かれている彼女の髪が、絹糸のように真っ直ぐだった。
出口が見えると、私の方から手を離した。これ以上繋いでいたら、私の不自然が彼女に伝わると思い怖かった。
ミュージアムショップで買い物をして、カフェで甘いものを食べて、夜、彼女がよく行くという居酒屋へ行った。
隣り合わせでサザエを食べながら、彼女に、彼氏とは上手くいっているの、と尋ねた。
彼女はその日一番の笑顔で頷いた。本当に幸せそうだった。付き合う前から相談を受けていたから、彼女がいま、どんなに幸せか、容易に想像できた。
彼女は、私とクリスマスを過ごした次の日に、アルバイト先の男の子に告白されて付き合うようになった。
幸せでいてね。世界で一番。
ふと溢れた言葉は、一切の嘘偽りのない本心だった。彼女は少し照れ笑いをして、あなたも幸せでいて、と言った。
23時を目前に、私と彼女は居酒屋を出て駅へ向かった。
彼女は、中央改札ではなく小さな改札へ私を案内してくれた。いつもありがとう、今日も特別に楽しかった、と潤んだ瞳で彼女は笑った。
しばらく黙って見つめ合っていた。私の名残惜しさが彼女に伝播したように、彼女が私に一歩近付いて、私を抱き締めた。
バイバイ、と、私は綺麗に笑えていただろうか。帰り道、月を見上げると切なくて泣いてしまった。
あれからすぐ、世界中が大変な状況になって、今現在まで彼女とは一度も会っていない。互いの誕生日にメッセージを送り合ったくらいで、あるとき「愛してる」とLINEがきて動揺したりしていたけれど、
好きな女の子から突然愛してるとLINEがきてドキドキしている
— 裏庭 (@__figment) 2020年10月6日
あの頃の不思議な距離感は消えて、ただの友達になった。
自分が失恋をしたことに気が付いたのは、イブサンローランで一年ぶりにマニキュアを買ったときだった。昨年のクリスマス、彼女からマニキュアを貰って以来、馬鹿みたいにずっと同じ色を使っていた。まるで、爪をその色に染め続けることで、彼女の気持ちも染まると信じていたかのように。
彼女がくれたのは、THREEのMOON CHILDとGOLDEN CLOUD。あの夜の月の切なさも、金色の雲の如く神々しいまでに眩しかった笑顔も、忘れたくない、忘れられない。
忘れられるわけがない。
最後に彼女と美術館へ行って、手を繋いで、抱き締められた日から10ヶ月が経った。今でも彼女を思い出すと切なくなる。彼女に会いたくて堪らなくなる。
それでも、時間をかけて、失恋をした。
一年ぶりに買ったマニキュアの色は、真っ白だった。